だから僕は小説をやめた

 

考えたってわからないが、本当に年老いたくないんだ

いつか死んだらって思うだけで胸が空っぽになるんだ

――ヨルシカ「だから僕は音楽をやめた」

 

 

 いったいこれまでに夢をいくつ掲げてきただろう。

 

 ぼくはずっと小説家になりたかった。

 それを初めて志したのは、小学3年生のとき。国語の授業で、地図を描き、それに基づいて物語を書こう、という趣旨の取り組みがあった。ちょうどその時『ヒックとドラゴン』だの『デルトラクエスト』だの、北欧ファンタジー風味の児童文学にドハマりしていたぼくは、胸が躍るような心地だった。白けるほど簡単な学校のテストや、どうやったってうまくいかない体育や、泣くほど苦痛だった塾の講習なんか比じゃないくらいに、生まれて初めて、「授業」というものを心の底から面白く感じていた。空想の世界を思い通りに創造することが、次から次へと湧いて出てくるアイディアを文字にしたためていくことが、これほどにも愉快なのかと感銘を受けた。周囲が配布された原稿用紙の数枚に作品を収めている中、ぼくは文具店で自腹を切って原稿用紙を購入してきて、140枚の、ホチキスでは到底留まらないような大作を完成させた。

 小説家は天職だ。これがぼくのなりたいものだ。これこそが、これから先の長いぼくの人生の、たった一つの答えだ。これしかあり得ない、そう思った。

 

 そう、ずいぶんと長いこと信じていた。

 中学生になったぼくは、多忙な運動部の活動の合間を縫って、ネット小説投稿サイトで細々と執筆活動を始めた。まったく閲覧数が伸びなくても、活動を知った友達にペンネームで弄られたりしても、それらの一つだって苦ではなかった。宣伝のために始めたTwitterの作法が解らず、全員フォロバするタイプの大手作家に「フォロバありがとうございます!仲良くしてください!」と馴れ馴れしいリプを送ったり、ぼくのPCを漁った父親にそれを発見されて小馬鹿にされたりと、いま思い返せば黒歴史以外の何物でもなかったのだが、間違いなくそれだけで、ぼくの中学生活は満ち足りたものになっていた。

 高校生になって、念願の文芸部に入部した。部員が数えるほどしかおらず、他部から迫害を受けているような零細部活ではあったが、すぐにそこはかけがえのない僕の居場所になった。そこは、かつて願った「自分の本を作る」という夢が、部分的に叶えられる場所だった。無論出版ではなく、自費で発行する同人誌を数部作って自己満足するだけの活動ではあったが、3年間を丸ごと宛がうのにそれは十分すぎた。ぼくは1年生のうちに部長になって、それからは部誌の編集に文字通り心血を注いだ。それは最終的に、全国どこの高校の文芸部誌をかき集めてきたって勝てっこないと胸を張れるほどのクオリティまで達した。そしてその熱量と同じだけ、読み手の心を動かせるような小説の執筆を目指した。恥ずかしげもなく言うが、ぼくはここまで、自他ともに周囲の誰にも文才で劣ったことはなかった。他校の文芸部とのコンペでは優勝を一度も逃したことがなかった。どんなにつらいことがあっても、どんなにうまくいかないことがあっても、小説の才能だけは誰にも負けないと信じていた。

 大学生になり、とりあえず何かしらのサークルに入る必要性に迫られた時、当然の帰結として、僕は文藝サークルを選んだ。そこは、高校の文芸部をそのまま強化したような団体だった。冊子の発行に加え、そこではOBの現役作家に講評してもらう会が催されていて、出版社とのコネクションもいくつかあるとのことだった。就職活動は出版業界が中心で、あわよくば作家も目指そうと考えていた僕にとって、そこに入らぬ選択肢はなかった。

 

 

 

 大学2年の夏。長かった長期休みもじきにおわり、初秋に差し掛かろうという頃。

 締め切ったカーテンを開けると外は真っ暗で、寝ぼけ眼をこじ開けるものはなにもない。午前中のバイトから帰宅し、睡魔に耐え切れずに、ベッドで意識が途絶えたのは8時間ほど前だったか。鉛のように気怠い身体を捻り、枕もとのスマホを手に取る。時計は22時を回ったころで、その絶望的な宣告に、ぼくは嘆息をつく。

 サークルの部誌の寄稿〆切まで、あと2時間弱しかない。もう5,6回は見送り続けてきた〆切だったが、今回こそは逃してはならなかった。安易に学園祭担当を引き受けてしまって、しかもそれがコロナ禍の順調な沈静化によって対面開催されると決まったもんだから、まさかそこで販売する部誌に「ぼくの作品は載ってませ~ん」などと言えようものではなかった。

 ぼくはラップトップを開き、更新日時が一昨日あたりになっているWordファイルを開いてみる。暗い部屋にぼんやりと光る画面には、何も思いつかないなか、何とか絞り出したなけなしのプロットの、以下のようなメモ書きが映し出される。

 

  •  ①深夜2時、僕は目を覚ます。鉛のように重い身体を引きずって、なんとかシャワーを浴びる。
  •  ②暗い部屋でひとり、「こんなに酷い人生を送っているのは父親のせいだ」と思い詰める。
  •  ③躁状態に陥ったぼくは果物ナイフ片手に家を飛び出す。終電も終わっているしタクシーもこの辺には来ないので、自転車すら持っていない僕は、殺すために、父親の住所へ徒歩で向かう。
  •  ④通りすがった人と肩がぶつかった僕は、ふらふらとゴミ捨て場に倒れ込む。ぼくはそのまま起き上がれずに、ただ自分の落ち目と虚弱を呪って涙を流す。

 

 筆が動かない。キーボードの上を指を乗せたまま、ぼくは目を瞬かせる。どこから本文を書いたものか、てんで見当がつかない。いつもなら、絶対に書きたいシーンというものが2,3個あって、そこに辻褄を合わせるためのつなぎみたいな残りのシーンを埋め合わせるために、大概の労力を割くものなのだが。

 これ、完成したら、誰かが手にとって、読むんだよな。

 そのことを思い描いて、数か月後の現実を推定して、ぼくは、言葉を失う。

 漠然と、鬱々とした気分を抱えての鈍い寝起きではあったが、冷や汗が肌を下り、肝が冷えていく心地に、否応もなく目が覚める。

 なんだこの――陰気で、沈鬱で、惨めで、何よりも、驚くほどにつまらない小説は。

 ついさっきまでの焦燥感が、急速に冷え切っていく。これを骨子に、文章を肉付けしていくつもりだったのがまるで嘘みたいに思える。どうしてこんなものを書こうと思ったんだ。どうやったらこんなもの、意気揚々と部誌に乗せる気でいられるんだ。正気じゃなかった自分に”時間差で”気づいてしまったことの恐怖が、そこにあった。

 想像を形にするという創作行為の本分は当然、ここにはない。現実で蓄積した鬱憤の捌け口でしかない。いや、死んだような現実からではもう、これくらいしか引き出せるものがないのか。創作をすることが、「実際にはできないことを、物語のなかで叶える」ということが、こんなに惨めに感じられたことは、未だかつてなかった。

 何を表現したくて小説をやってるんだろう。

 何が面白くて小説を書いてるんだろう。

 これを書くことで、何になりたいんだ。ぼくは。

 その全部がわからなくなって頭を抱えるけれど、ほんとうはわかっている。答えなんかない。そんなの全部どうでもよくなっていたんだ。

 思えば、高校時代の作品の過半数は、「最低な親からどう逃げるか」という一文に要約できてしまうような内容だった。ずっと前からそうだったんだ。小説を書くということの何もかもが、とっくに形骸化していた。自分のうまくいかない人生の憂さを晴らすための道具でしかなかった。そのことにずっと気づけなかった。そしてもう、短編ですら、まともに書くこともできなくなってしまっていた。

 10年以上抱え続けてきた、あのきらきらした夢は、ただ抱えて生きてきただけなのに、いつの間にか擦れて、削れて、崩れて、今はもう、見る影もない。

 もう無理だ、とわかる。僕にとっての小説は汚れてしまったんだ。そこにはもうどうやったって、あの頃の胸躍る心地を、涙流す感動を見出すことなんてできやしないだろう。人を呪うためでしか、言葉を扱えないんだから。

 ラップトップの画面を閉じて、ぼくは、学校の課題のためにこれからもWordを開き続けなくちゃいけないということに怖気をおぼえる。

 

 

 ぼくは小説を書くのをやめた。

 正確にはその2年ほど前から書くことができなくなっていたようだけれど、もう書けないんだ、とようやくわかったのは、その時だった。あるいは、(これを書き終えて想像を絶するつまらなさに辟易としてはいるが、)これが僕にとっての、最後の小説なのかもしれないが。